正解はなくて良い

「学校で勉強したこと」が「社会へ出てそのまま役に立つこと」がどれくらいあるか、考えたことはありますか? 学校で勉強したことにはほとんどの場合”正解”が在りましたよね。 社会に出て仕事に向き合うとき、対人関係を考えるとき、そこに”正解”が在るでしょうか? 立ち上げたプロジェクトを実践する過程において、より大きな成果を期待しますが、そこにはリスクはあっても正解はありません。 

 

現在の学校で学ぶことの多くは正解への道のりを学ぶことです。 いかにして正解するか?ということです。 この道のりをより多く学んだ子が偏差値が良いわけです。 だから、偏差値が高く有名大学を出ただけでは、社会では通用しません・・・実社会では正解のないことが殆どですから。

 

そして、いつからでしょうか、疑問を持つことを止めたのは・・・”疑いを持つこと”がいつしか敬遠されるようになってきた。 歴史を教える先生は、教科書を開く前に、生徒に念を押しておく必要がある・・「これから学ぶことは一つの解釈でしかない」と。 起こったこと(事実)は列挙できるが、真実は推測でしかない。 解釈はあっても正解(真実)はない。 

 

戦後の歴史を勉強するとき、勝戦国の都合の良いような「解釈」を学ぶことが多い。 この解釈に疑問を持たず、宗教のごとく妄信している方々も多い。 ここでも、思考(疑問をもつこと)が停止している・・(憲法第9条は国民の法的合意であって、宗教ではない)。 このように思考(疑問をもつこと)が停止したとき、過去(戦前)にどのような事態となったか? 

 

隣国の潜水艦がこの国の近海を通過したとか、ミサイルが複数打ち上げられているとか、隣国の脅威論が展開される。 それらのニュースの後には、F35戦闘機を120機購入したというニュースが入ってくる。 民主国家である限り、嘘は伝えられないが、都合の良いニュースだけを流すことはできる・・・都合の悪いニュースは流さないということ。 このようにして”国民の気運”を作ろうとしている・・・次の選挙に勝たなければならないので。 

 

学校教育では、”信じること”ではなく、”疑いを持つことの”大切さ・当然さ”を学ぶところであってほしい。 

 

正解はなくて良い・・