悩める親・惑う子供

「悩める親」 「惑う子供」

 

塾長としては、先ずは「子供の言い分」を聴きたいのですが、現実はそうはいかない。

 

多くは、母親が(気の進まない)子供を連れて面接に来られるので、

 

「母親からの状況説明」から始まる。

 

親と子の関係

 

 

  ・・・・・・

 

 

家で勉強しない。 机に向かうが、ゲームやユーチューブなどにハマっている。

 

子供は勉強しているふりをしているだけ・・

 

 

朝7時に起き、学校で6時間授業を受け、その後に部活で2時間、

 

帰宅するのは6時過ぎになる。

 

それから、風呂に入り、食事し、机に向かうのは早くて8時、

 

遅くなれば、9時過ぎになる。 そろそろ、眠くなってくる・・

 

 

このような状況で机に向かって勉強する子はよっぽど「勤勉な子」か、

 

既に成績がよく、成績が落ちることに恐怖感さえ覚えている子。

 

この「勤勉な子」には、勉強好きな子もいれば、予習、復習、宿題などを

 

しっかりやる習慣が身に付いている子も多い。

 

親に言われるから勉強するのではなく、

 

「何らかの理由」で自分から進んで勉強する。

 

 

 

何らかの理由」・・・

 

 

小学生であれば、自分が勉強することを親が喜んでくれる。

 

「親の期待に沿うこと」が良いことと素直に信じている。

 

 

中学生ともなれば、どこどこ大学へ入り、どういう職業に就きたいか、

 

漠然としてはいるが、目標があり、モチベーションが高い。

 

(中学受験などで)”頑張りが報われる”という、”経験値”もある。

 

 

家庭内で、両親が前向きに人生と向き合っている姿を普段から見ていて、

 

努力することを当然なこととして自然に受け入れている。

 

 

それから、単純に「負けず嫌い」というのもある。

 

また、勉強以外では目立てないので、せめて、勉強くらいは・・

 

という、異性や同性に対する意識が強く働いている。

 

 

父親または母親に対するライバル意識がある。

 

親を超えていかねば・・という、よい意味での反抗(対抗)心が根底にある。

 

 

 いぜれにせよ、子供が頑張り、それなりの成績を収めていれば、

 

 親は安心でき、その状況を維持してもらうことを望み、

 

 また、より高みを目指すために来塾するケースも多い。

 

 

 

ここで問題なのは・・・「悩める親」と「惑う子供」

 

 

悩める親」に共通しているのは、

 

周囲の出来の良い子(または兄弟・姉妹)と(その)子を比べていること。

 

誰々よりは勝っているが、誰々よりは劣っているとか・・

 

せめて、○○程度の大学には入ってほしいとか、

 

比較することで我が子の位置(将来の社会的地位)を見定めようとしている。

 

子供の”絶対値”を信じていない。

 

  ”絶対値” ・・・ 個性、能力、適性、成長過程は様々である。

 

 

 その時代の価値観に翻弄されるような人生にはしないように・・

 

 生き方を狭めてしまうような既成概念に縛られないように・・

 

 

惑う子供」・・・

 

 

頑張りが報われなかった苦い経験がある。

 

 

頑張れば次の頑張りの課題が待ち受けていることを知っており、

 

辛いことから本能的に逃げる習慣が身についている。

 

 

親または周囲の人に対する不信感が根底にある。

 

(親のために頑張らせられている・・とか、

 

真に自分のために・・とは、受け止められない)

 

 

「誰々は頭が良いから・・」と言って、

 

自分の努力が足りないことを認めようとしない。

 

 

この世は情報に溢れ、全てを知り、全てが解ったような錯覚がある。

 

(面白そうな、夢を持てるような未来を想像しにくい)

 

自分が創造する夢やアイディアはネット上に既に存在している。

 

したがって、モチベーションが上がらない。

 

夢や希望が持てない。

 

現実を知るにつれ、頑張りが報われる・・とは素直には思えない。

 

大資本が牛耳り、個人の頑張りに意味を見出せない。

 

 

”出るくぎは打たれる” 

 

すなわち、目立てばイジメられる対象になりうるので、

 

”何事にも程よく”という、悪習が身に付いている。

 

勉強も程々に・・ということになる。

 

ロボットやAIの出現により、”程々の人生” などというものが存在しないことを、

 

親も周囲も本人も気付き始めるが、悪習から抜け出すことは難しい。

 

 

 程々の人生  ・・・

 

 

 昭和の時代では、健康で真面目であればそれなりの生活は保障された。

 

 平成に入り、資格を取ることが安定した職業に就く近道と考えられた。

 

 ”程々の人生”というものもあったように思う。

 

 ところが、令和の時代になって、資格が必要と思われる仕事のほとんどは、

 

 AIに取って替わられることが分かっている。

 

 これまでは、10年、20年後に「どのような職業が必要とされるか?」

 

 という予測が出来たし、おおよそ当たっていた。

 

 ところが、AIの時代に入り、

 「雇用を奪うことはあっても、新たな雇用を生まないのではないか!」

 

 「多くの失業者をだすが、彼らを再雇用する社会構造が見えない」

 

 これまでの科学技術から生まれる機械(蒸気機関からコンピューターまで)は

 

 人類の支配下にあり、利用する物であった。

 

 ところが、膨大な情報を入力してやれば、

 

 瞬時にその答え(判断)を出してくるAIの出現で、

 

 多くの知識や優れた知恵を有する”管理職の仕事”さえも奪われていく。

 

 この世で最も偉く優れていると思われる人類の地位が脅かされている・・

 

 

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 技術革新の始まりは、蒸気機関が発明されたころに遡る。

 

 発明された当初は、肉体労働者の雇用を奪ったが、

 

 それ以上の知的雇用を創出した。

 

 それまでの(聖職者、貴族などに権力や富が集中していた)社会構造を崩し、

 

 多くの新たな「市民」が生まれ、「平等」の意識に目覚めた。

 

 

 その後、1950年ごろにはコンピューターが登場し、

 

 その「利便性」において、”人類の大いなる味方”に思えた。

 

 

 ところが、AIの登場においては、この世の半数の雇用を奪うと予測され、

 

 ”人類にとっての脅威”と見なされようとしている。

 

 これまでの「富の格差」は許容範囲ではあるが、

 

 「一部の大金持ちとたくさんの失業者」という構図は受け入れがたい・・

 

 と危機感を抱く人がいるのも当然である。

 

 

 未来は(多くの人にとって)それほどまでに悲観的なものかどうか、

 

 私個人としては、より多くの余暇が生まれ、

 

 様々なサービス業に今まで以上の雇用が生まれ、

 

 様々な文化事業の促進につながる。

 

 また、一部の人たちに富が集中しないように「富の分配」が図られる。

 

 経済的繁栄と安定した社会はお金の循環があってこそ・・