親と子の関係 「相互の理解」
親と子の関係における「相互の理解」について・・
世の中というのは、全ての場面において、
「レッテル」をはられることから始まっていることが多い。
親は「親」というレッテルをはられ、
子は「子」というレッテルをはられることから始まっている。
周囲からはられているのか、自らはっているのかの自覚もない。
この「レッテル」をはられることでの「問題」は、
親は親であるための既成概念に縛られ、その役割を演じざるを得ないことであり、
このことは、子も同然で、”子であるという必然”を強いられることになる。
このような親子関係では、互いの理解は得られないし、信頼関係も成り立たない。
私の提案は・・・
全てをデフォルトして、”人と人との関係”へ戻してみることだと思っている。
例えば、父親が子をハイキングに連れ出してみたらどうだろう。
(ハイキングでなくとも、親が趣味としていることなら何でも良いでしょう)
この場合は、父親としてではなく、より長く生きてきた”先輩”として、
ハイキングにおける様々なノウハウを伝授したらよいと思います。
そうしながら、父親が(我が子と)同世代の子供のころ、
何を悩み、何を求めていたか・・を、正直に話してみたら良いと思う。
・・この場合も、決して”父親”を演じてはならない。
どこまでも、”人”として話してみることだと思います。
このような行為の中で、
子は初めて「自分(子)を親が理解しようとしていること」に気付くのです。
無気力に見える子が、ある時、目覚めたように突然変わることがありますが、
親がレッテルをはられた親を演じるのではなく、
子の目線で”真実”を語ってみることが”決め手”になることがあります。
この世は既成概念がまかり通り、レッテルが張り巡らされ、
親も子も、がんじがらめにされていることに気付いてください。
これまでの親子関係を”人対人”の関係へデフォルトしてみてはどうでしょう。
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既に10年以上前になるが、
精神科に入院している中学2年生の男の子をリハビリも兼ねて、
塾で勉強をみることになった。
彼は特別に精神を病んでるわけではないことはすぐに分かった。
小学校1年生の頃から不登校となり、地元(かなりの田舎)の中学にも上がれず、
7年に渡り、引き籠りを続けていたのである。
(都会であれば、目立たないことではあるが、
田舎では”針の筵”状態であったことは十分に想像できる)
田舎なので、中学生が入院できるような病院もなく、
東京の病院に入院し、リハビリを兼ねて塾に通ってくることとなった。
最初は、彼が塾に向かって通ってくるのを看護師さんが
(彼に気付かれないように)追跡し、
帰りも、終わる時に合わせて迎えにに来ていたと後になって知った。
勉強の指導などは、さておき、私は彼といかにして会話するか?が課題であった。
最初の数回は、何度か話しかけてみたが答えは返ってこなかった。
そして、ある時、彼はぼそっとこう言った「僕には居場所がありません」
あまりに”重い言葉”に返す言葉も見つからず、私は”沈黙”してしまった。
それから数日後、病院へ彼を迎えに行き、桜並木の下を一緒に散歩した。
相変わらず、彼から話をしてくることはなかった。
私は、自然のことについて、たわいもない話をしたのだろう・・
その内容に関しては、既に覚えていない。
私自身が不登校を続けていた時期があり、
彼の気持ちは少しは分かることもあって、
精神を病んだ子であるとか、特別な子であるとは全く思っていなかった。
彼と同じ目線で、桜並木を散歩できたのかもしれない・・
それからは、彼の方から私に話しかけてくるようになった。
彼の話を聞くうちに、彼が病院を出たいということを知った。
(彼は、病んでいるわけではないので当然である)
彼のご両親と主治医と私は、彼の今後をどうするか?話し合った。
そのころ、彼は中学3年生になろうとしていた。
当然のことではあるが、(針の筵状態に置かれた)地元に帰る選択肢はない。
だからといって、退院できる状態でもあった。
3者が話し合っている中で、
「彼がひとりでアパート住まいが出来ないか?」という提案が出てきた。
私はこのあたりが地元なので、信頼できる不動産屋さんを知っている。
その業者に、無理を承知の上で、
「私が責任はもつから、彼が入れるアパートはあるかどうか?探してくれないか?」
と頼んだ。
精神科を退院したばかりの中学3年生のひとり暮らしである。
なんとか、私の住まいの近くのアパートを借りれることとなった。
何かの不都合に備え、いつでも彼の携帯と僕の携帯とは繋がってる状態にした。
彼はひとりで自炊して、中学を卒業し定時制高校も出た。
その後、調理師の資格を取り、現在はラーメン屋の店長を務めている。
今、思っても、何が原因・理由で彼が”心を開いたのか?”私には分からない。
レッテルがはられていない”人対人”として、
接することが出来たからなのだろうか。
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私は、日曜祭日はクリエイターとして活動している。
モノ創りであるが、絵画、写真、音楽など、分野は様々です。
とある人の紹介で、一人の女性を撮影することになった。
3人の子供がおり、下の子はすでに5歳になっているという。
撮影の際には、たわいもない世間話などをしながら、
寛いだ感じを出しながら、”固まらない”ようにリズムよく撮っていく。
そんな時に、その女性が面白いことを話した・・
帰宅した際には「帰って来てくれて、ありがとう・・」と子供が言うのだそうだ。
なるほど・・と思った。
この女性(お母さん)は生活感が全くない。
3人の子供がいるとはとても思えない。
”適度な距離感”が子供との間にあるのだろうか、
子供にとっては、「もしかしたら、母さんは帰ってこないかもしれない」
という、”心配”があるのかもしれない。
”人対人”の関係はあっても、”母親”をやってないのかもしれない。
だから、子供にとっては、”絶対的な存在”ではなく、常に引き寄せておかないと、
離れて行ってしまう存在として(母親が)写るのかもしれない。
最近は、一人っ子が多いこともあり、
母親が子供に”介入し過ぎる”のを見ることが多くなった。
感慨深い女性(母親)と出会ったものだ・・