未来は、人に何を求めているか?

 

通ってくる生徒にとって、その日によって指導内容は違ってくる。

「今日の課題」として、今、学校で進んでいる分野の復習を例題を解きながら確認していく。

 

 

また、受験が前提ならば、その対策が優先される。

 

 

全ての生徒達には、今の時点でこなさなければならない課題があり、

数日後、数週間後の定期テスト対策があり、

数か月後の英検・漢検などへ、長ければ1年後の入試に向けての対策がある。

これらと並行して、その生徒の「将来に役立つ真の意味での学び」が検討される。

 

 

15歳であれば、その後70年をどう生きるか?という”壮大なドラマ”が在るはず。

そこには「未来は、人に何を求めているか?」、「それぞれの個性をどう生かすか?」

という両面から検討してみる。

 

 

「未来は、人に何を求めているか?」

 

蒸気機関の発明から近年に至るまで、肉体的労働から人を解放した。

コンピューターとAIの出現により、知的労働からも人を解放するだろう。

  ・・・知的労働(知識と経験、データなどを基にして判断を下す作業)

 

これまでの”会議”は知的労働であったが、

これからの会議は、個人がいかにモチベーション高く働けるか?

企業として、組織として、いかにすれば、モチベーション高く在れるか?

仕事場の環境はもちろん、個人のコミュ力が大きく問われる時代になる。

未来は人に「真の人間力」を求めていると思われる。

 

個人にせよ、企業、組織にせよ、モチベーションを下げられる要因は、

効率主義と成果主義に起因していることが多いと考えられる。

成果主義とは、現実のところ、本当の成果を求めていないことが多い。

形式的な評価にすぎない。 

評価とは、本来、人や物の価値を上げていくものでなくてはならない。

が、そうなってはいない

 

 

 最近の記事から・・

 

昨年から、人口減少に入ったという記事があった。 

もちろん、この国、日本のこと。

 

中国やインド、ブラジルなどをみれば、多くの人口を抱えればGDPは増していき、

国際的な発言力は増し、相対的に国力は上がっていくと考えている。

  ・・このように考えるのは「大国主義的な発想」がそうさせるのだろう。

 

昨年、ベルギーに出かけた。 人口は日本の10分の1、GDPも10分の1。

したがって、個人所得は同等と考えてよい。 単純に、税率は50%ということ。

社会保障制度などは充実していて、安心して生きていけるように思えた。

豊かな国ランキングというものがある。 

北欧諸国が上位を占め、人口は数百万~1千万人ぐらい、決して大国ではない。

 

この国の人口減少に関して、危惧する向きもあるが、多分に見当違いだと思われる。

  ・・・人口が減ればGDPが下がり、国力が落ちるという考え方が前時代的。

移民を多く受け入れ、過疎化する地域を無くしていこうとする案などもあるが、

それは止めた方が良いと考える。

 

鎖国を数百年続けてきた国。 (僕には、いまだに続いているような気がする)

他民族による多様性を受け入れられるとは到底思えない。

この国は、それほどの寛容な社会とも思えない。

 

極東の島国であるというハンデは、今やアドバンテージであると考えられる。

安全な国という意味で”聖域”を保つことも大切なことと考える。

多様性を前提とするグローバリズムと、聖域を守ることは矛盾しない。

 

 

 

 

それでは、それぞれの個性をどう生かすか?

 

 

私は、自身のアート活動を通して、「個性的であること」の大切さを切に思う。

「他に類を見ないもの」でないと、その価値を見出されない。

言い換えれば、「初めて観るもの」でないとそれなりの評価は得られない。

アートは他と比較する中で在るものではないので、「絶対の美」が求められる。

「その人の作品の中にしか観られないもの」、すなわち、それを「個性」とする。

 

学術分野であれば、先駆的な役割を持つ発見・発想・証明・思考などであって、

他者の歩んで「道」を歩んでも何ら意味を持たない(・・これは、アートも同じ)。

また、他の分野と同様であるが、何らかの形で社会へ貢献してないと意味を持たない。

 

技術革新分野においては、先頭を切っていること、一番であることに意味があって、

二番であることは何ら意味がない(特許がとれない)。

細部においては、より優れていることに意味はあるが。

 

 

偏差値とは、相対評価(値)である。

全体の中でどこに位置しているか? ということが分りやすい。

言い換えれば、他者との比較の中で、どの辺に位置しているか?ということ。

これまでの競争社会においては、重要な指標にはなり得たが、

これから先の未来においては、「個性が問われること」であって、

他者との比較の中の相対評価は意味を持たない。

競うものであれば、一番でないと意味がないし、

「文化全般」においては、他に類の見ないものでないとその価値はない。

”二番煎じ”や”真似”ではダメだということ。

 

このことは、そんなに難しいことではないと思います。

その人らしい生き方を捜し行くことだと思ってます。

知力を培い、他の誰でもない”自分らしさ”を追求していくことだと思います。

 

 

現実的に起こっている事象・・

 

都立高校の個性化が進んでいる。 

偏差値70以上の高校では、進学に特化したカリキュラムが組まれ、

大学院、海外留学まで見据えた授業内となっている場合が多い。

偏差値60~70の高校では、大学受験を前提とした授業内容となっている。

高校の普通科で勉強する内容は、偏差値60以上の生徒に適しており、

それ以下の生徒には無理がある(私立・都立を問わず、偏差値40~60に

位置する高校では、内容レベルを下げ、カリキュラムが組まれている)

・・ここまでに書いたことは、英・数・国・理・社に関する学力レベルであり、

音楽・美術・技術家庭・保健体育への適性は含まれてない。

 

現在は、都立・私立高でも、工業、商業、芸術などに特化した高校が増えてきたこと、

子供たちも、幼少時から、習い事なども多く体験し、能力を見極めるチャンスも多い。

 

限定的に言えば、英・数・国・理・社の偏差値が45~55の生徒(40%)が、

高校で普通科に進学し、授業を受けていることに問題がある。

偏差値45~55の生徒にとって、高等教育の普通科の授業内容を理解することは

無理であり、無駄である(レベルを下げてまで授業するなら、他にすべきことは多い)

 

したがって、中学を卒業するころには、自己の適性を見極めることも大切。

それから、様々な成長過程を経る子供もおり、コースを変更できるシステムにすべき。

 

 

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