自由で在りたい

時代が変われば生き方も変わる・・

 

「自由で在りたい」と思うことは、究極の”欲求”なのかもしれない。

自由とは何なのか? どうすれば、それを得られるのか?

社会の中で生きていくことの中での自由とは?

心の在り方としての自由とは?

 

こうして、自由を追求していく中で、自由という概念にどんどん縛られていく。

そして、いつしか、不自由な人となる。

自由を提唱する人たちを観察していくと、”窮屈な人”に見えることが多い。

”既成概念に縛られない”という概念にいつしか縛られているからなのだろう。

 

自由な人というのは、そもそも最初から自由であって、

どうしたら自由な人に成れるか?とか、自由な生き方が出来るか?とか、

そういう考え方をしていない。 

概して、”天然に見える人たち”なのです。

 

この国では、個の在り方を優先する慣習(社会)にはまだまだなってないので、

この”天然に見える人たち”が、社会的に”居場所”を見つけることは難しい。

子供のころはイジメに晒されたり、大人になれば”変わり者”扱いされる。

 

この国の人たちの大半(80%くらい)は既成概念に縛られている人たちであり、

また、既成概念に縛られているとこで”安心感を抱く”人たちなのです。

真の自由人であることは、この国では難しい。

子供頃から、大人になっても、変人扱いされたり、イジメの対象になりやすい。

だから、自由人を徹すことは、かなりのエネルギーが必要なのです。

 

 

 

話しはかわるが、電車内の宣伝広告が無くなりつつある。

殆どの人たちがスマホばかりを見ていて、車内の広告に目がいかない。

このことは、宣伝広告ばかりでなく、スマホから広がる自分だけの世界観に夢中で、

スマホの外側に見える世界(現実)には興味を示さない・・とも言える。

(FBの宣伝広告が、以前にもまして多くなってきたように感じる。

車内の広告が激減していることと無関係ではなさそうです)

一昔前のパソコンが、今はスマホに代わったとも言える。

パソコン・オタクという言い方はあったが、スマホ・オタクという言い方はしない。

なぜなら、この世のほとんどの人たちが”オタク”になってしまう。

本来ならば、”オタク”と言われる人たちが”普通の人たち”として認知されるようになった。

 

時代が変われば生き方も変わる・・

 

したがって、自由の概念も変わる(代わる)。

スマホの画面から、解放された世界(すなわち、自由)を得られたというのだろうか?

 

パソコンの画面から、この世の全てが見えるという”錯覚”があった。

それが今では、スマホの画面からこの世の全てが知り得ると錯覚するに至った。

それら全ては、電波を通して知り得ることであり、

”現実・真実”を知ったわけではない。

コンサートに足を運ぶ人なら分かるだろうが、

ユーチューブで流れる音楽は単なる音であり、真の音楽ではない。 

また、スマホで観える絵画は真の絵画でもない。

(電波を介して伝えられることの多くに、真の感動もない)

 

ホリエモンという人が、多くの書籍を出している。

また、メルマガと言われるツールで多くを語っている。

彼の言うことは98%正しい。

ただ、彼には決定的に欠落しているものがある。

それは、感性から哲学に至る”受け皿”であり、道筋である(それが、欠けている)

スマホでゴッホの絵画を見れば、ゴッホを知った気がする。

ところが、スマホで観るゴッホと美術館で見るゴッホは全く別物である。

(画家の名前や作品を知ることと、芸術の神髄に触れることを同じにしてはならない)

 

話を元に戻しましょう・・

自由であるためにはどうしたらよいか?

自由に生きているだろう‥人の行動を観察しましょう。

彼ら彼女らの行動・言動をコピーするように真似てみたらどうだろう。

哲学やら心理学などで掘り下げることではなく、

理屈抜きに、”形から入る”ことが近道かもしれない。

 

 

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                                   in Paris,  France