偏差値エリート?
部活や生徒会活動もほとんどせず、”偏差値エリート”と言われる「自分のためだけに頑張って学力をつけ、一流大学へ進んだ学生」の未来には暗雲が立ち込めてます。 ”偏差値エリート”の身に付けてきたスキルは、AI(人工知能)が取って替わりそうなのです。
”偏差値エリート”と言われる人たちの多くに「欠けていること、もの」とは何なのか? 人間形成に最も大切な時期(思春期)に、偏差値を上げることだけに邁進し、人間関係の大切さを蔑ろにしてきた”つけ”がまわってくること・・・コニュ力、協調性などに欠ける。 AI(人工知能)は、PCに組み込まれたプログラムに過ぎません・・・たかがプログラムと言っても、人間と比較した場合、記憶力・計算力は比べ物にならない程優れてます。 膨大な量の情報をインプットし、それらに基づいてアウトプット(推論)する能力は人の能力を遥かに凌ぎます・・・この能力こそ、偏差値エリートの得意分野であり、AI(人工知能)が取って替わりそうなのです。 データの分析やパターン化された操作に集約される仕事なども同様でしょう。
「ChatGPT」が話題になっている・・その機能はいかなるものかと言えば、ネット上にある膨大なデータを基にして、「入力した質問」に対して「即座に応える」仕組みとなっている。 未だ開発途上なので様々な問題点を含むが、瞬時に答えを”生成してくるわけで、それはまるでとんでもなく優秀な偏差値エリートのような(創造力にかける)答えを出してくるわけです。 莫大なデータを基にした”オーム返し”と言ったらよいでしょうか。
乱暴な言い方ですが、教育を未来を担う人材育成機関と考えるなら、”頭だけが良い子・偏差値エリート”を育てても、何ら意味がないことになります。 頭がよく、プライドばかりが高い人間を育てているなら、そのような人は社会的には必要とされない(雇用がない)ことであり、本人は頑張って来たことでもあり、結果として、これほど理不尽なことはありません。
意志や感情、(知識ではなく)常識がある、行動のプロセスを提案し、周囲から理解され、説得力のある行動がとれることこそが、人間にしかできないことと思われます。 これらのことを促せる、培うことのできる現場こそが、今、教育に求められることであり、(子育てする両親も含めて)社会的環境をどのように整えていくのか? ・・が問われていることになります。
・・・ 実社会を見渡してみると、偏差値エリートだったと思われる人が、官僚(財務省など)や大手銀行、保険会社などで中核をなしている人たちは多く見かけますが、目だって何かに長けているような人は想像以上に少ない。 偏差値の高い人たちが集中する東大を出て、首相になる人は最近ではほとんど見かけません。 組織のトップになる人は、偏差値以外の”人間力”が必要なのでしょう。 決められたことを規制のルールでより正確にできる人が偏差値の高い人であることは十分に想像できます。 同様に、東京芸大を出て、アートシーンで目覚ましい活躍をする人も僅かですね。
昭和の時代は、アナログの時代は終わりを遂げ、コンピューターが普及し、平成では、デジタルが一般化し、令和ではAIの時代が訪れる。 このように目まぐるしく”ツール”が移りかわる中で、教育の現場では、その中枢をなす先生方は昭和の時代を生きた人たちであり、既に、二世代前の”既成概念”を持った人たちが生徒を指導している。 教育が”未来を担う人材育成”という観点から見れば、明らかに根本的な教育改革を必要とし、日本という国柄を考慮し、”常識力を培う”という観点からすれば、現状のままでもさして問題はないだろうと思われる。
・・・ 大人の引きこもりについて
40代以上の引きこもりは、全国で70万人以上おり、若年層(10代から30代)の引きこもりは50万人程度で、40代以上の引きこもりが、若年層を上回っていることになる。 偏差値という判断基準が使われるようになったのは、現在の70歳前後の団塊の世代からで、当時から「偏差値エリート」は存在したことになります。 エリートと言われながら、社会的には適応できなかった人たちがこの「引きこもり」にどれだけの割合で含まれているのか?数字的なデータはありませんが、かなり多く存在することは”経験的に”想像できます。 すべての年代層の引きこもりに、勉強ができるだけで優秀と認められた・周囲から褒められた「偏差値エリート」を見てきたからです。
40代以上では、経済の高度成長期にあり、(勉強が出来る)=(社会的地位やお金が保障される)という図式があり、”偏差値全盛時代”ではあったわけです。 また、頑張れば報われることが信じられた時代でもあります。 この時代を生きた人たちの欠点は、社会的マナーが悪いこと。
若年層では、社会的適応性の問題は当然として、(兄弟が少なかった、ひとりっ子だったこと)に起因してることでしょうか、いじめに対する免疫力がないとか・・。 ”ゆとり教育”が横行した時代です(生徒も先生も呑気にやろうや!という、間違った共通認識がまかり通った時代です)。 40代以上の人たちと比べて、マナーはよいが、志が低い人を多く見かけます。
少子化は(将来、働き手が不足するという意味で)深刻な問題ではありますが、その前に、全国に100万人以上いると思われる「引きこもりの人たち」をどのようにすれば再雇用できるか?ということに行政は向き合わなければなりません。
「引きこもり」がなぜ存続しうるか? ですが・・・ 40代以上では、親の年金で暮らしていることが多く、70歳を超えた健康面でも不安のある親からすると、ホームヘルパー的役割をこなし、病院などの送迎まで出来るわけですから、とても心強い存在でもあります。 ただし、親がいなくなってから後に、どのようにして生計を立てていくか?を考えると、お先真っ暗な未来が待っていることも事実ですが。
若年層の「引きこもり」では、親が働き手として現役であり、収入もそれなりにあるわけですから、生活面には困りませんが、「経済的自立をしてない大人が」同居してるわけですし、「早く結婚でもして出て行ってほしい」と考えることは当然と思われます。
ネガティブな話題ばかりになったので、少し面白い話を・・
フランスでの展示会へ出展した画像 テーマ「花魁」
私が写真を始めたのは、今から8年前、ニコンD3という画期的なデジタルカメラが出現した時に遡る。 デジタルがアナログ(フィルム)を凌ぐと言われ始めた時。 デジタルなら誰にでも簡単に写真が撮れる(フィルムでは、現像という厄介な工程がある)。 今でいうなら、スマホで写真を撮る感覚。 編集ソフトはもちろん、PCそのものがデジタルなのだから、編集してからネット上へ載せるのも簡単。
この画像の原画は、縦7600 (個のドット・・点)x横6400≒4800万(の点の集合)で一枚の画像が成り立っている。 限りなく無数の点の集合で「描かれた絵」と思えばよい・・・点描法で描かれた絵画のように。
このサイズの画像では見えないが、影の部分を(ドットで)打ち直している。 陰に見えるところは、データとしてはグレーなのだが、その部分を明度が同じ(補色関係にある)赤と緑で点描法のように描き込んでいく。 この画像の1平方センチメートルを描き替えるだけで10時間を要する。 要所となる部分だけにしても10か所くらいになるから、編集し終わるまでには100時間かかったことになる。
なぜそこまでやれるか?と言うと、原画を超えて、より美しく輝きだすことを実感できるから。 デジタルという利便性のある”手段”で、実際に絵を描くより時間がかかってしまう。 矛盾しているような気がしないでもない。 補色関係にある色を決めるのも、打ち直す場所を決めるのも、その人の感性に因るもの。 利便性があるということは、物事を”安易”にしてしまうと考える人がいるかもしれない。 しかし、実際には、これまで到達できなかった領域まで到達できるし、より感性を深めることになっていく。
(参考)補色関係にある色・・・その2色を混ぜるとグレーになる(彩度を失う)色の組み合わせ。 例えば、赤と緑、ブルーとオレンジ。
中学時代に美術の時間に勉強したことが(常識力となって)活きていることになる。 ちなみに、ブルーの補色は、理論的にはオレンジだが、感覚的には黄色にすると良いようだ。
テーマ「花魁」