AIとの向き合い方

近い将来、人が労力と思われることのほとんどをAIが肩代わりするでしょう。

 

そうなると、より良い条件で仕事に就くための勉強は無意味になる。

 

偏差値を上げることによって、有名校に入学でき、卒業できても、

 

その勉強(努力)自体は教養の基盤にはなっても、

 

お金を得たり、社会的な地位を保証する手段にはなり得ない。

 

 

今、学校(大学など・・)で学ぶとの多くはロジカルなアプローチであり、

 

また、そこから得られる成果をどのように出力していくか?ということだろう。

 

(教える側も教わる側も、それが学ぶことだと思い込んでいるし、

 

社会へ出てもそれらが役立っていくと信じている)

 

ところが、AIの進化を鑑みれば、

 

10年後にはこれらもAIの範疇にあるとこを知っておくべきです。

 

 

大雑把に言えば・・

 

産業革命以降、肉体労働から解放され、

 

AIの登場により精神労働からも解放されようとしてます。

 

(AIが人から仕事を奪い、

 

失業者を増やすというようなネガティブな思考は止めましょう)

 

産業革命以前は、頑強な肉体を持ったものが重宝がられ、

 

現代に至るまでは、豊富な知識を持った者が優位にあったということ。

 

そういう時代は過ぎようとしていること。

 

 

世界の5大メジャーな写真展というものがあって、

 

その中の一つに「フランスのアルルでの展示展」というのがあります。

 

(世界的には有名な展示会であっても、日本ではほとんど知られていない)

 

2016年に私(塾長)は出展してます。

 

その写真展の会場(宮殿)ではどのようなことがあったか?というと、

 

作品完成に至るまでのロジカルなアプローチを問われました。

 

同様なことは、北京の写真祭に出展した際も、若者から質問攻めにあいました。

 

中止にはなりましたが、

 

今年の10月には北京で「アート的な写真」をテーマに講演することになってました。

 

 

私の中で習慣化されていることでもありますが、”作品在りき”ということで、

 

”鑑賞眼”を磨けよ!ということで、考える前に感性で観ろ!ということですね。

 

先が見えてこそのアプローチであり、見えないことにはアプローチのしようもない。

 

”鑑賞眼”を育むこと、それが教育の原点であってほしいし、

 

親から子への対応でもあってほしい。

 

AIには持ち得ないもの、それが感性であり、”鑑賞眼”であると考えている。