アートの本質
近い将来、人が労力と思われることのほとんどをAIが肩代わりするでしょう。
そうなると、より良い条件で仕事に就くための勉強は無意味になる。
偏差値を上げることによって、有名校に入学でき、卒業できても、
その勉強(努力)自体は教養の基盤にはなっても、
お金を得たり、社会的な地位を保証する手段にはなり得ない。
ベルギーのギャラリーでの出展作品・・ 2019
今、学校(大学など・・)で学ぶとの多くはロジカルなアプローチであり、
また、そこから得られる成果をどのように出力していくか?ということだろう。
(教える側も教わる側も、それが学ぶことだと思い込んでいるし、
社会へ出てもそれらが役立っていくと信じている)
ところが、AIの進化を鑑みれば、
10年後にはこれらもAIの範疇にあるとこを知っておくべきです。
大雑把に言えば・・
産業革命以降、肉体労働から解放され、
AIの登場により精神労働からも解放されようとしてます。
(AIが人から仕事を奪い、
失業者を増やすというようなネガティブな思考は止めましょう)
産業革命以前は、頑強な肉体を持ったものが重宝がられ、
現代に至るまでは、豊富な知識を持った者が優位にあったということ。
そういう時代は過ぎようとしていること。
アルル国際写真祭 2016
世界の5大メジャーな写真展というものがあって、
その中の一つに「フランスのアルルでの国際写真祭」というのがあります。
(世界的には有名な展示会であっても、日本ではほとんど知られていない)
2016年に私(塾長)は出展してます。
その写真展の会場(宮殿)ではどのようなことがあったか?というと、
作品完成に至るまでのロジカルなアプローチを問われました。
同様なことは、北京の写真祭に出展した際も、若者から質問攻めにあいました。
中止にはなりましたが、
今年の10月には北京で「アート的な写真」をテーマに講演することになってました。
私の中で習慣化されていることでもありますが、”作品在りき”ということで、
”鑑賞眼”を磨けよ!ということで、考える前に感性で観ろ!ということですね。
先が見えてこそのアプローチであり、見えないことにはアプローチのしようもない。
”鑑賞眼”を育むこと、それが教育の原点であってほしいし、
親から子への対応でもあってほしい。
AIには持ち得ないもの、それが感性であり、”鑑賞眼”であると考えている。
パリのギャラリーで・・2018,2019
細部までイメージする力が創造を生む
例えば、ゴルフの話をします・・
プロは、そのホールでボールをピンの下位置につけるには
フェアウェーの何処から打てば良いかを決め、テーショットを打ちます。
(ボールをピンの下位置にのせることは、登りの直線になり、
最も易しいパットになるからです)
素人は、ティーグラウンドに立てば、
フェアウェーの出来るだけ遠くへボールを飛ばそうとします。
ここで何が違うかというと、プロは結果から逆算してティグラウンドに立ちます。
素人は、ティグラウンドでただ遠くへ飛ばすことばかりを考えてスタートします。
ゴルフに限らず、競技と言われることのほとんどは
結果から逆算して始めていきます。
競技に限らず、写真撮影(アート制作)に関しても同様です。
作品の出来上がりの絵(写真)をイメージします。
(それも、かなり細部まで具体的に)
そのイメージした絵にするには、どのような編集が必要か?
また、その編集するための原画はどのようにすれば得られるか?
その原画を得る為には、何を背景にして、どのようなライティングが良いか。
そして、ポートレトなら誰を撮るか? ポージング、表情などはどうか?
カメラ側の設定はどうするか?など・・
全ては、出来上がった写真(作品)を想定して、逆算しながら撮影に入ります。
写真というものは、眼に見える図とはかなり違って写り込みますし、
それらがどう違うかは、たくさん撮って経験値を上げることが大切です。
北京にて商業写真として撮影 2017
絵を描くことも作曲することも同様です。
何となくイメージできたから創ってみた‥という程度では、
優れたものは創れないと思います。
絵を描くなら、予め細部までその図は見えていること、
見えていることを具現化することは経験が必要ですが、
これらは創造的なことではなく、単に作業に過ぎません。
敢えて言うなら、創造的なことは描き終った後に
トーンやアクセント、質感を整えることくらいです。
マタニティーフォト 2017
多くの人たちは、「創造的であること」がどういうことか、
勘違いしているように私は思います。
無が有になるように、無いものがあるとき突如生まれてくるように
思っているようです。(天から降って湧いてきたとか・・)
既に目に見えているもの、頭の中で聴こえてくるもの、
かなりち密に具体性をもって感じるもの、、、
があって、初めて、造り始めることが出来ます。
方向性(結果)が分かっているので迷うことも少ないのです。
ですから、頭が真っ白な状態でキャンバスに向かったところで、制作は無理です。
抜きんでた人に成るためには、沢山学び、多くを知り、
より沢山の広く深い情報を得ることだと考えます。
そこから、アイディア・イメージは生まれてくるものと信じます。
そのアイディアを現実化するために努力と忍耐力が必要です。
国際写真祭・出展作品 2016
写真をアートとして見る場合、その”胆”は何だろうか?
パーフェクトな作品を狙おうとするのではなく、
観る者の創造力をかきたてるスペースを創ることだと考えてます。
そのスペースの取り方は、写真家においては様々で、
それが”個性”の源になっていると考えてます。