「不登校・引き籠り」 その実態・・
「不登校・引き籠り」 その実態・・
多様性が当たり前の時代であれば「それぞれの自由」というものがあって良い。
それぞれとは何か?
「現実を主体に生きる人たち」と「非現実の中で生きる場を見つける人たち」。
スマホ・PCはあくまでも便利なツールとして使うが、
主体(軸)は常に現実に置いている人たち。
方や、現実は人間関係などもややこしく面倒なことも多いことから、
”活躍の場”をスマホ・PC・ゲームの中に求めようとする人たち。
実体験に主体をおくか、疑似体験まででよしとするか・・
恋愛を例にとると分かりやすい・・
SNS、ゲーム、アニメや漫画など、疑似体験できるツールは溢れている。
現実に恋愛を体験することは、この上ない喜びでもあり、
同時に半端ないストレスも生じる。
「現実の喜び」を取るか、「ストレスのない疑似体験」で止めておくか。
最近の若い人たちを見ていると、この2極化が進んでいるように感じる。
リアル(現実の)な恋愛体験を持とうとしない若者が年々増えてきているように思う。
リアルな現実で生きようとしない者を見つけると、
多くの人たちは、不健全だとか、どことなく気味が悪いとか思うかもしれないが、
現実の世界であれ、ネット上であれ、法が守れるのなら、
「それぞれの自由」があっても良いのではないか。
そもそも、このような内容を話題にするのは・・
不登校の子供たちと塾内で向き合っているからです。
このような子供たちの多くはゲームにハマっている。
ハマっているというよりも、他にやることがない・・というのが現実なのか、
以前ならば、ひとり悶々と時間を過ごすことを強いられていたところを、
ゲームをすることによって、それらの子供たちへ”活路(逃げ場)”を与え、
本来ならば、心を病んでしまうことから、
子供たちを救っているかもしれない・・と考えたりする。
だからといって、
現実でほとんどコミュニケーションをとろうとしない生徒を前にすると、
”これから先、この子はどうやって生きていくのか、
いつかはかわれる時がくるのか”・・と考えると、心は重く、痛む。
思春期という人生で最も貴重な時を部屋に籠り、
ひたすらゲームにハマっている姿を想像し、見ているのは辛い。
”心の扉”を叩いてはみるが、その扉は頑なに閉ざされている。
<親と子の関係>
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話し言葉のやり取りが苦手で、会話が成り立たないことがある場合は、
相互交渉が苦手になり、当然のことですが、
視線が合いにくく、共感性も乏しくなり、人間関係が成り立たないか、
希薄になります。
こういうケースの場合、小学低学年までは幼児性が抜けなく、
精神年齢が低いなどと(周囲が思い)、
「発達障害」を見抜けない場合があります。
小学高学年ともなれば、
担任または親が(他の子供たちとは)違うことに気付きます。
また、未来を想定して行動を立てられないことも多く、
応用が利かないケースも多くあるそうです。
また、興味を持つ範囲は狭く、一つのことに拘りやすい傾向もあります。