ツールとしての「コミュニケーション力」
コミュ力とは、コミュニケーション力のこと。
これからの時代、最も大切なツールとしてのコミュニケーション力。
ツールだなどと書くと、方法論のように聞こえるかもしれないが、
実は本質論なのです。
以前に通ってきた生徒で、大学に入り、
コンビニのバイトの面接に行ったところ、3度も落ちてしまった子がいて・・
僕のところに相談に来て、面接に通るにはどうしたらよいか?尋ねてきた。
「面接では、どんな態度で何を喋ればよいですか?」と。
僕は即答で「僕がコンビニの店長なら君を雇わないよ」と。
「なぜなら、普通にしてる君には嫌なオーラが漂っている」と。
僕らは、コンビニに限らず、嫌な印象のあるお店には二度と足を運ばない。
接客(コミュニケーション力)というものは、それくらい大切なことなのです。
オーラというものは、その人の内面を見事に再現していることが多い。
だから、コミュ力というのは、ものの本で勉強して学べるしろものはなく、
自分自身の内面から変わっていかなければならないし、
良い印象のオーラを放つためにはそれなりの時間を要する。
お店などでは、前もって決められた「接客マニュアル」というものがある。
そのマニュアル通りに実践してても、店員によって大きく印象が違う。
自分から積極的に話しかけたり話題作りをするということじゃなく、
相手側から、この人と関わりたい、
この人にコンタクトをとりたいと思わせるオーラを持ってないといけない。
要するに、短期間に学べることではなく、
育った段階でいつしか身に付いた”人格”なのです。
勉強だけ頑張って偏差値を上げた人よりも、部活動でもまれた人の方が、
社会へ出れば、適応性がずっと高くなります。
また、社会へ出れば「協調性」が問われる。
この協調性が何を意味するのか? 国や地域によって大きく異なる。
この国は「家族社会」なので、どうすれば「仲良くやれるか?」と考える。
人間関係の基盤は共通の趣味や嗜好を確認し、「似た者同士かどうか?」を探り合う。
価値観が異なっても、それが許容範囲にあるかどうかも。
”群れを成す”ことを本能的に求める社会。
群れに属することが協調性であり、外れれば協調性に欠けることになる。
この国では、「協調性」とは、集団または組織を乱さないこと、
他の多くの人たちと異なった言動を慎むことを強いられる。
集団の在り方が優先され、個人がどうあるかは蔑ろにされる。
先進諸外国になるとどうなるのか?
日本でも、都会のマンション暮らしをしている人たちはどうなのか?
海外生活も長かったり、近所付き合いが苦手だったり、
PTAなどで息苦しさを感じる人達も少なくないと思います。
「協調性」とは、他者への積極的な理解を前提として成り立っている。
出身国も異なり、宗教も違い、慣習も違う、
それぞれの人が多種多様な価値観を有する。
”群れ”を成すのではなく、”個人”を単位としてしか社会は成り立たない。
自分と他者との違いを認識し、
どのようにすれば”共存できるか”という在り方が生まれる。
だから、個人を単位とする「個人主義」というものは必然的に生まれてきたもの。
日本という国と先進諸外国という比較よりも、
田舎と都会の関係として捉えることもできる。
<未来への思考>
コロナ禍で、テレワークなどがますます盛んになっていくのだろうが、
画面と音声だけでのコミュニケーションになるのだから、
これまでより、楽だと考える人がいるかもしれない。
ところが、画面と音声だけという限られた情報下では、
かえって、その人の”本質”が見えやすい。
情報量が少ない分、雰囲気に惑わされることもない・・と思われる。