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2023-07-26 05:45:00

失敗する教育

 多くの子供たちと接する中で、親と子と私(塾長)の三者面談をするうちに、”失敗する教育”に立ち会うことが多くあります。 それらには様々なケースがあり、その事態に応じて様々な対応をしてきました。

(ア)親と子の関係が”固定化している”ケース。 親は親を演じ、それに伴い、子は子を演じることを強いられている。 このような、互いに(親は親、子は子として)レッテルをはるような在り方は、互いの個を尊重できる在り方とは程遠く、親子関係がぎくしゃくしても当然と思われる。 いかにして、親子間の程よい距離感をとり、人対人の関係を取り戻せるかを三者面談を通して話します。  <親と子の関係における相互理解

(イ)我が子を自分(親自身)の理想の型に子供をはめこもうとすること。 また、親自身が実現できなかったことを我が子にリベンジさせようとすること。 これは、上手くいくケースもあるのですが、失敗すれば親子感の溝は決定的なります。 親の理想の型は、一時代前の理想であって、現在、少なくとも未来の理想像ではないこと・・普遍性のある価値観と時代と共に移り変わる価値があること。

(ウ)母親に多いのですが、子をヒステリックにしかりつけてしまう。単に感情的になっているとも言えますが、度が過ぎてるケースです。 この場合は、反抗期を迎えるころ、子の方からもヒステリックに反抗されるか、親を全く無視するようになります。 子が親に反抗し、憎悪の念を抱くうちはよいが、無視するようななることであれば、かなりその”親子関係”は重症かもしれない。取り返しの使いない溝を作ってしまった可能性が高い。 愛情と憎悪とは反意語であるように使われることが多いが、実は愛も憎もコインの裏表であり、どちらも愛がなければ抱かない感情である。 ところが、無視するということは(子の心の中から)親の存在を消すことであり、血縁関係でありながら、その関係は生涯絶たれてしまう可能性も十分ありうる。

(エ)我が子を他者と比較して説教する。 兄はできるのに、あなた(その子)が出来が悪い・・と本人(子を前にして)愚痴る。 隣に住む子とか同級生とか、はたまた親戚のだれだれとか、比較対象はきりがありません。 上下関係、優劣の中でその子の”立ち位置・程度”を決めつけて、「負けないように頑張りなさい!」という親。 優劣とか上下関係の中でしかその子を評価してないことになり、”個の在り方”を全く無視しており・・親の生き方・価値観そのものが問われる?話です。

(オ)親も子も社会までもが共有してることなので、対処が難しいことですが・・”何事もほどほどが良い・ほどほで良い”というくくりが出来上がってしまっていること。 目立てばいじめの対象になりやすいし、誹謗中傷の的になる・・このことは、学校においても会社でも社会の中でも。 成績でいえば、5段階評定で4程度がちょうどよいところで、それ以上の努力をしようとしません。 

(カ)やれ!と言えばやるが、言わなければやらない。だから、しかたなく、やれ!と言う。 そんなことを繰り返し、”やる、やらない”の悪循環に陥る。 子供の方に主体性がないことが問題の本質ですが、でも、その主体性をいつしか失くした、持てなくなったことの主因は親側にあることが多い。 (イ)の例にあるように、子供を親の理想の型へはめようとしたことが原因であったり、(エ)の例にあるように、他者との比較の中で言われることに嫌気がさしているケースもある。

(キ)子供が頑張って成績を上げれば、親が「もっと頑張れば、さらに上を目指せる!」と、親が子に発破をかける。 子の側としてみれば、頑張れば頑張っただけハードルを上げられ、さらにキツイ状況を強いられる。 親としては、成績が上がってきた子へ、更にハードルを上げるような言い方は止めること。 先ずは、褒めてあげる、そして、何らかの形で”ご褒美”を用意してあげればよい。 そうすれば、子は進んで頑張るようになります。

(ク)私(親)は勉強ができたのに、我が子の出来が悪いことを愚痴る。 こういう場合は、親としては(子から)尊敬される対象でありたいと思うあまり、親が虚勢を張っているケースが多い。 少し嫌味な言い方になりますが・・区立中学では普通くらいの成績であったが、高校に入ってから上位の成績が取れるようになり、自分(親)は勉強ができる生徒であった・・と記憶するようになる。 でも、よく考えてみれば、中学時での上位の生徒は上位校へ進学し、自分(親)が進学した高校には自分より上位の生徒がいなくなり、必然的に成績上位になったに過ぎない。 それでも、「学生時代は自分は優秀であった・・」と(子には)言い続け、それを繰り返す。 学生時代に優秀であった親は決して自分が優秀であったとは(子に)言わない。 子が中学生くらいになれば、自ずと分かるようになることを知っており、親子間に”優劣”を持ち込むことがいかに愚かであるかも知っており、子のやる気(頑張り)を削ぐことも分かっているので・・。

(ケ)将来的に、経済的自立を促すうえでは、「幼少期に、転んだ子の手助けはしない」ことが”鉄則”です。 転んで泣き叫ぶ我が子を子自らの手で立ち上がることを見届けることは親の方にも”忍耐”はいることですが、ここは”心を鬼”にして、対処するしかありません。

(コ)頑張っても頑張らなくっても、”人生そうはかわらない”と悟ってしまっているケース。 その”悟り”が正しいかどうかの議論は別として、”頑張ろうとする意志”が伝わってこない生徒は5人に1人(20%)くらいはいるような気がします。 そういう生徒を前にした場合、私(塾長)が伝えることは・・「頑張っている人を見ているとかっこよく見えるが、やる気のなさそうな人には魅力がありません。 だから、自分が気に入った人と関わりたいのなら、かっこ良く魅力的な人であった方がずっと得をするよ。 それと、頑張ってる人がミスをしても周囲の人は責めませんが、いい加減にやってる人には厳しい目が向けられる。 部活なんかをしてれば、分かるでしょ・・あいつを出したから試合に負けた・・とか、言わないだろうけど、内心はそう思われたりするよ」と。

(サ)幼児性が抜けてないだろう・・と思われるケース。 親の目が常に自分に向いてないと不安になってしまう子がいます。 勉強に限らず、様々なことでそれなりにしっかりやるようになると、親としても内心、安心して、細かなことは子供任せにしようとします。 そうなってしまえば、親の目は自分から離れていくわけですから、いつまでたっても自立しようとしません。(カ)の例のように、やれ!と言えばやるが、言わなければやらない・・という悪循環に陥るケースも、この幼児性が抜けないことが主因になっている場合があります。

(シ)この場合は「失敗する教育」とは言えないかもしれません。 学年が上がると、前年度に使っていた教科書を捨ててしまう親がいます。 教科書というのは厳選された知識・知恵が詰まっているわけですから、それらを安易に廃棄してしまうことは”学びの根底”を崩していく行為です。 家庭内に勉強する環境があるとは思えません。